愛情省101号室

物 議 を 醸 せ

遍く衆生の救済

東京一極集中はしかたがない。

何故なら、誰だって自分の夢は叶えたいからである。

生まれた環境が理想のものではなくて、もしもその理想が東京で叶うのなら、それは東京に行くしかないだろう。

その志を誰が邪魔できるのか。

誰もできない。

人の自由意志を妨げるのは許されない。

 

問題は、そのような生活ができるのは、我々の世代が最後ということである。

 

総務省によれば、日本は2008年より人口減少社会へ突入した。

これは端的に言って、危機である。

ロングスパンであるが故に意識されにくいが、確実に日本は衰退していく。

あらゆる資源の源泉である人間が減るのだから当然だろう。

人口減少は東京一極集中・地方過疎化を助長し、それらはさらに人口減少を助長する。

この負のスパイラルは10年20年で改善されるものではない。

我々は衰退の時代を生き抜かなくてはならない。

 

しかし本当にそうだろうか?

 

衰退する社会のなかで、人生の自由が制限されるなんてことはあってはならない。

我々はそれを許してはならない。

我々はそんな不条理を許してはならない。

金が無いから理想を諦めるとか、街を出られないから夢を捨てるとか、そんなことを許してはいけない。

確かに衰退は厳しい、問題に直面することだってあるだろう。

その問題を乗り越えられない瞬間だって訪れる。

でもそれに屈したら、でもそれを受け入れたら、何の為に生まれたのか分からなくならないか。

何かに従うために生まれてきたのか。

 

 

我々は檻で生きる家畜でもないし、プログラミングされた機械でもない。

我々は自律した人間である。

家畜や機械が持っていないような、社会を作る力が、幸福を追求する力が、夢を叶える力が我々にはある。

だからこそ我々は、我々に宿る可能性を信じるために、人生が素晴らしい冒険であることを証明しなくてはならない。

制限されたゲームでも単なるルーティンでも厳しい拷問でも無味乾燥な空虚でもなく、理想を掲げて戦い続ける英雄譚であることを証明しなくてはならない。

たとえ縮み続ける檻に入れられても、その背中を丸めてはいけないのだ。

 

私はそのために生涯を捧げる。

将来いつかどこかで生まれる名も知らぬ誰かが、自分の理想を叶えられる環境を作るために。

楽しい毎日を自分の世代で終わらせないために。

理想を諦めて夢を捨てる人がこれ以上生まれないために。

我々の人生を制限しようとする、この国の衰退そのものと戦う。

 

青春とは選択肢を削る日々のこと

大学院に合格した。

今日は大学院が主催する国際フェロー説明会に赴き、幾つかのプログラムの参加報告を聞いてきた。

これはインドだな。

インドが私を呼んでいる。

あちらが私に来いと囁いている。

 

 

 

青春とは選択肢を削り取っていく日々のこと、である。

かつて持っていた「無限の可能性(なお生まれ落ちた家庭の経済状況によって無限の定義は異なる)」は既に失われている。

大学生となれば、もう “人生" を始めるために選択肢を削っていかなくてはならない。

同期のほとんどは削り切って人生を始めたし、私も悩んだ結果、選択肢を削った。

私に残った直近の選択肢は “院進学” だった。

 

もし後輩の誰かがこんなバカアホブログを見ているのなら、上記のことを覚えておいて損は無い。

政策学徒的に記述すれば、未来への選択は経路依存である。

ターニングポイントXで選択肢Aを選べば、時点のターニングポイントYで選べるのは選択肢A-xしかない。

選択肢Bは選べない。

人生Bは無いからである。

もし選べたとしても、どんなに取り繕っても客観的に見れば選択肢Aはロスになる。

間違いから学んだ、とかいうのは間違えたことを正当化する慰めの言葉に過ぎない。

 

 

飽きた。以上。

暑さに我慢ができない

住環境を快適に設定できない時点で、私はcivilizationへの信頼を失いつつある。

機械文明の御子を自称する私としては、自らの部屋は快適にしておきたいのだが、いかんせんこのアパートは熱交換が最悪だ。

風通しを良くしようものなら、プライバシーまで全開にしなくてはならない。

そんなのがcivilizationと言えるか。

否、言えぬ。

ここは文明社会の盲点である。

 

 

こんな記事を読んでいる暇人達は、どうせ古びた扇風機を必死になって回しているようなプロレタリアートであろう。

何を隠そう、この私も同じく古びた扇風機にしがみつく人間なのでよく分かる。

扇風機をサーキュレーターがわりにして空気の動線を創り出す試みも、単なる熱風の循環を早めただけで終わってしまった。

あとはひたすらにイライラするのみ。

暑い暑い暑い。

 

 

バーーーーーーカ!

なぜ差別がいけないか

差別がいけない理由を説明できないのは、文明人として失格である。

私はCivilizationの申し子を自称しているので、文明人たる尊厳の回復とTOEIC勉強の息抜きに、この理由を自分なりに示しておく。

なおここでの『差別』の定義は、以下のものとする(ブリタニカ国際大百科事典より引用)。

『特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為』。

まぁどの辞典の定義をとっても大差はあるまい。

 

まずもって、差別がいけない理由を『自分が差別される立場に陥ったら嫌でしょ』というセーフティネット論にすり替える輩は人間失格である。

ありもしない仮定で話を進めると、ただの理想論で事が終わる。

最近このような輩がいて困る。

即刻文明から退場してもらいたい。

 

差別が発生するところでは、属性によって分かれている集団があり、さらにその集団間には何らかの大小による力関係が存在している。

力の大きい集団が力の小さい集団に対する一種の強制が一般的差別であろう。

単純は数の大小では決まらないのがミソである。

 

もう飽きてきたので結論を言うと、差別は多様性を殺すからダメなのだ。

差別は多様性を、そこから生まれる様々な可能性を殺す。

だからダメなのだ。

自由主義に生きる我々は、法の平等やら人権やら多元主義やらといったリベラリズムの上で安寧を享受している。

それを前提にして考えると、差別はこの理念を破るものである。

これは大きな損失である。

 

インド圏を見よ。

世界最大の人口を有しながら、未だにカースト制が息づく神秘の大地を見よ。

あそこには自由主義は無い。

キリスト教的西洋的価値観は無い。

あるのはヒンディーとカースト制である。

かの大地で、カースト最下層(不可触民)が自らの処遇を『差別だ!』と叫ぶだろうか。

否、彼ら自身は叫ばない。叫ぶのは西洋的価値観の住人である。

差別を良しとしない自由主義が根付いていないのだから、そこには差別だって存在しないのだ。

 

つまるところ、差別がいけないのは、一人一人の自由を大切にする価値観の中で生まれた我々であるから、である。

価値観が違えば我々が定義している差別だって正当化される。

 

というのが私の論である。

ただの備忘録なので、アカデミックな論陣を張るわけではない。

先行研究も調査してないし、精査だって無い。

もしかすると福祉系に刺される主張かもしれないし、そうでないかもしれない。

院試が辛い。

TOEICが辛い。

 

人は老いる

人は老いる。

【若さはあっちゅうま】と浮雲さんも歌っているが(椎名林檎『長く短い祭』)、まさにその通り、我々の若さは消費物である。

 

年齢は目安であって指標ではない、でもあえていうなら、「若さ」とは40歳までを指すとする。

平均寿命の半分だし、初老という言葉もあるからである。

私は21歳なので、残りの若さゲージは19年!

 

私はきっと、人生で最も若い時期を生きているのだろう!

肉体的精神的に「幼い」から脱し、今が「若い」の若いときだ。

 

若さは消耗品、しかもナマモノ。

壊れる寸前まで酷使したい!

アーティスティックの極致

みんなどこかで、本当は自我なんて模倣の集合体でしかないことに気付いているんだろ?

 

 

もし自分を自分のものにしたいのなら、自分が唯一無二であると確信したいなら、ユニークな存在であることを立証したいなら、これまでになかった新たな価値を創造するしかない。

アーティスティックの極致、最終的自己表現、1人の人生の彼岸、そんなものの先にあるのは、「自分が何かのコピーではないことの証明」でしかない。

 

ではこの世界に、自分を獲得できた人がどれほどいるというのか。

不可避な死の匂いを感じる

不可視の生の存在を感じる

 

 

人生が幸福であるべき理由

諸君、人生とは苦難の連続である。

この苦難は絶え間なく続く。

人間関係、金銭状況、家庭環境、突然の不幸に格差社会etc、苦難の原因は枚挙に暇が無い。

しかもそれらは自分の力ではどうすることもできない場合が多い。

これは、全くもってふざけている。

一度限りの人生、一度限りの博打なのに、なぜ我々は不幸にならねばならない?

 

 

苦難は続く。

しかもそれは不可避で、人生を進める上では真正面から受け止めねばならない。

ならどうすればよいか。

我々はただ、不幸になるために生きているのか。

ちょっぴりの楽しさの為に、多大なる不幸を飲み込まなくてはならないのか。

 

 

否、断じて否。

「たった一度の人生を楽しく過ごす」という前提に立てば、押し付けられた苦難以上の幸福を享受する資格が、我々一人一人のなかにあるのだ。

人生のマイナスを補って、プラスにする選択肢があるのだ。

「みんな不幸になりましょう」などという社会に対し、毅然とNOを突きつけ、マイナスを補って余りある幸福を請求する権利を持っているのだ。

 

 

それが人生である。

それがこの現代社会である。

幸福になるために社会があるのだ。

幸福を諦め、退屈を受け入れて、現状に甘えたまま未来へ甘い期待を抱くのは、「生きている」とは言わない。

"生きる" とは、傷つけ傷つけられても幸福を求めて戦い続ける覚悟のことである。

真に生きていたいなら、苦難に塗れても戦い続ける理由を見失ってはいけない。

 

 

人生が幸福であるべき理由。

それは "苦難を押し付けられているから" に他ならない。

たった一度の人生なのだから、押し付けられた苦難以上に幸福であるべきなのだ。

そのためには、幸福を求めて、苦難ばかりを押し付ける全てと戦う必要がある。

それが生きるってことだろう。

それが生きているってことだろう。