暗闇の中での跳躍

物 議 を 醸 せ

どこまでも辛く険しい旅となりますように

文明というものに強い関心がある。

日本は世界でも上位に入る文明国家(東洋では最初の「西洋国」であることは国際政治学を参照)であり、我々ミレニアム世代は文明の庇護の下で暮らしてきた。

 

ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」を読んだことはあるだろうか。

「なぜ西洋文明は世界の覇権を握れたのか(なぜ他文明が世界を支配できなかったのか)」という問いを多角的に分析した書籍なのだが、内容の正統性はさておき、結局のところ「地理的に有利だったから」という結論に落ち着く。

ユーラシア大陸の西のはずれで発生した産業文明(ナウシカ風)は、それと相対して世界を「文明」「未開」「野蛮」の3つに分けた。

国際政治学でいうところの、世界システム論とそれに連なる系譜の話である。

国連憲章から文明の二文字が消去された現在、西洋文明は遍く社会に浸透している。

 

私が2日後に旅立つインドは、この21世紀においてなお「文明」が届いていない国の一つである。

さらに特筆すべきなのは、上記3カテゴリのうち、インドは「未開」にあたることだ。

文明国は北アメリカやヨーロッパ・オーストラリアにあり、野蛮国はアフリカにある。

アジアと南アメリカはまさしく未開、停滞を知らない発展の最中にある。

ましてインドは「最後の超大国」と言われ、発展面からも人口面からも世界をリードする存在だ。

まさにカオス、熱狂の国。

文明という鋭利な刃物をどう使えばいいか思索中で、振り回して遊ぶ子供のような趣を感じる。

 

前述した通り、私は文明に興味がある。

日本という文明国で、信仰という柱を持たない私が

インドいう未開国で、信仰という柱で生きる人々に

会いにいく。

私はこの事実だけで心が躍る。

文明の終着点にして最前線へ行けるのだから、文明の信奉者としてこれほど興味深いことはない。

私が対峙するのは、地球最後の巨人である。

人口の伸びは骨の成長、経済は筋肉。その巨体は地球を組み敷く。

しかしまだ信仰しか知らず、文明の扱い方はよく知らない。

風の谷のナウシカ」では、ペジテ市の地下深くから、最後の巨神兵(オーマ)が発掘されたことから物語が始まる。

在りし日にナウシカを読んだ時のロマンと同じような興奮を感じる。

 

 

「混沌を学ぶ」、抽象的だが、これをテーマとしたい。

願うなら、私の想像よりもはるかに文明的で、調和に満ちたインドを見たい。想像を裏切られたい。

どこまでも辛く険しい旅となりますように。

文明の修道者として、文明への信仰が試される旅になって欲しい。

艱難辛苦汝を玉にす。

極限にまで厳しい旅を超えた先になら、私は何者かになれるのだろうか

私はそこまで柔な人間なんだろうか

 

新年あけましておめでとう。

今年もどうぞよしなに。

 

卒論がひと段落して、無事卒業できそうである。

これまで培ってきたものを卒業研究という形で多少なりともぶつけられたのではないかと思っている。

 

自己の連続性について考えることが多くなってきた。

小野寺という人間がこれまで何をしてきたか、という「歴史の連続性」は消えないだろうが、私が私のことをどう認識するか、という「自己の連続性」はどうなるのだろうか。

10年前の自分と、現在の自分と、10年後の自分では、何がどのように異なるのだろう。

 

たぶんだけど、何らかの変質が起こるのは確定的である。

自分を正確に自認できるのはその時の自分だけなので、22歳の自分が12歳の自分について評価してもあまり意味がない。

そういう不確定を防止するために、このようなブログが外部記憶として機能するのだろう。

 

それぞれの時代にそれぞれの私がいる、と考えると何だか寂しくなる。

それは、この文脈で考えたとき、殻としての "小野寺" は(たぶん)生き続けるだろうけど、中身としての "私" は遠からず消えてしまうからである。

私を規定するパーツを数多くあって、そのパーツが変質することで、総体としての私は変化するのだろう。

 

では、各時代における私の消滅がおしなべて悲しいのかというと、それも違う気がする。

なぜなら、現在の私がパーフェクトな私ではないという自覚があるので、将来の私が現在の私の欠点を補完し、殻としての小野寺の相対価値を押し上げてくれる可能性があるからだ。

もちろんその逆(より酷い人間になっていく)の可能性も十分にあり得るが、「正しい選択をした」という事実こそ、現在の私が将来の私へ示せる唯一の証、存在証明であるように思える。

注意するべきなのは、その存在証明が現在の私の人間性から言って、穏やかなものではないだろうということである。

好きな人を選ぶ、勉強を頑張る、友人と遊ぶ、家族を大切にする。

そうした一つ一つの「正しい選択」は現在の私の戦利品だけでなく、将来の私への挑戦状なのだろう。

「俺は正しい選択をした、お前はどうする」という挑戦状なのだろうと思う。

 

この先、累積していく経験から現在の「私」という自我は消え、そこから新たな「私」が生まれていく。

これが不可避の事象である以上、日頃から現在の「私」が行っている「選択」は、現在の所有物というだけでなく、将来の「私」に対しても残るものである。

将来の「私」が現在の「私」を憎まないようにするには、その選択を正しいものにしなければならず、その正しさが将来の「私」を焚きつける燃料になる。

これで燃え上がった炎のことを「自負」と呼ぶのだろう。

 

 

 

夢に犯されていく

年の瀬である。

今年も存分に遊んだ。

「獣のように学び、獣のように遊べ」の信念を貫いた、良き一年であったと思う。

悔いがあるとすれば、「まだ大学生を続けたい」と思ってしまっていることです。

4年間に自分の全てをぶつけられなかった、もしくは全てをぶつけたが故に、過ぎた毎日が口惜しい。

 

とはいえ、順調にいけば、来年私は大学院生。

インフラの管理(維持更新)をどのように行うか(制度設計)について勉強して、危機管理の専門家になれれば良い。

 

モチベーションはどこから来るのか?という問いはよく寄せられますが、上記の興味分野に引き寄せて答えるなら、それは至極単純な理由による。

文明を維持する大義を果たしたい。

上記したインフラストラクチャー(水道・電気・道路・空港・鉄道・トンネル・橋梁・学校・港湾etc)とは civilization の根幹を形成する基礎そのものだからこそ、インフラの守護が civilization の守護に繋がる。

もし専門家になれたとしても出来ることは本当に微小でしょう、それでも私がこの手で文明を守れるのなら、何かを残せるのなら、生涯を賭ける価値はあると思っている。

社会に対する究極の自己顕示である。

世界を救うという誇大妄想をどうにかして叶えたい。

文明の守護者になりたい

 

絶対に主人公であり続けたい

大都市の駅、プラットフォームに並ぶ人だかりを見たことはあるだろうか。
視界を埋め尽くす人の山、湿った熱気、雑踏の音。
あの光景を目にするたび、耳で聴くたび、肌で感じるたび、私は堪え難い虚無感に襲われる。

私にはあの光景を構成している一人一人が、私と同じように自我を持って、私と同じように意見を持って、私と同じように情緒を持っていることが信じられない。

22歳を迎えた今になってもまだ信じられない。

プラットフォームだけではない、車窓からすれ違う車の運転席を見た時、全校集会で同期が集まった時、居酒屋で騒いでいる時でさえもである。

きっと脳の処理が追いついていないのだろうけど、私は信じられないと共に信じたくないのかもしれない。

きっと私は、私一人が特別な仕様になっているわけではないことを認めたくない。

他者からはただの人形のように見えていて、結局は大量生産された人間で、私自身もあの光景の一部品であることを認めたくない。

この自我が特別なものではなく、大量生産された人間の標準装備であることを認めたくない。

言い方が難しいけど、「私」という自我は私だけが持つものでありたい。

 

私が全てをマウンティングしたいのも、その為に努力を惜しまないのも、きっとそういった「特別になりたい」という意識の表現に過ぎないのだろう。

もしかすると恐怖に近いのかもしれない。
だからこそ自分が何かの模造品でなく小野寺という不可侵性を持った孤高のもので、決して他のニンゲンと同様のものではないという差異をはっきりさせ続けておきたい。

プラットフォームの一部品ではなく、それを観察する側であることを世界に示し続けたい。

ワンオフの人間であることを誇示し続けたい。

 

むしろそうでないと、自分という物質に何の価値もない(替えが効く)ことを認めてしまうことになる。

それが最も嫌だ。怖い。それだけは絶対に嫌だから、

 

 

 

手足があるのは

院試をトップで通過したらしく、諸々の学費が免除となった。

この時点では、私がこの分野の最高峰である。

である、はずである。

……持て囃されるのは心地良いけど、何より親の喜ぶ顔が見れた(肉眼で視認はしていないけど)のがとても嬉しい。

我は儒教の精神を生きる者。

モチベーションは田舎に生まれた怒りと一族の誇り。

 

 

遠方地から帰還の車中、後輩といろんなことを話した。

あいつも頑張って働いて、たらふく呑んで、カフェインも摂らずよく起きていたなと思う。

 

結局のところ、自分のテリトリーに安住する奴はそこまでである。

敵がいない環境は安心するし楽だろうけど、きっと成長は見込めない。

ここでいう “成長" の定義とは、コミュニケーション手段や会話の引き出し、説得力、機転などなどである。

まぁ変化の乏しい環境で満足しているのだから当然だろう。

 

私は人間性に問題があり欲深い罪人なので、作り出したテリトリーは放っておいて新天地を求めがちだ。

これもこれで問題だけど、少なくとも成長はしている。

それは知人らなら理解できると思う。

その延長線上として、内側のノリを外部まで持ち出す奴らが大嫌いだ。

この一点を以て、私のゴーストとテリトリー安住者とは相容れない。

 

そこでタイトルに戻る。

手足があるのは、この身を捩って前に行くためである。

逃げるためだけに生えたわけじゃない。

だから私にとっては、テリトリーに閉じ籠る人間達には手足がない、虚しくバタつくだけに見えている。

 

と、車中の会話からそんなことを思った。

日食なつこを聞きすぎたせいかもしれないけど。

 

遍く衆生の救済

東京一極集中はしかたがない。

何故なら、誰だって自分の夢は叶えたいからである。

生まれた環境が理想のものではなくて、もしもその理想が東京で叶うのなら、それは東京に行くしかないだろう。

その志を誰が邪魔できるのか。

誰もできない。

人の自由意志を妨げるのは許されない。

 

問題は、そのような生活ができるのは、我々の世代が最後ということである。

 

総務省によれば、日本は2008年より人口減少社会へ突入した。

これは端的に言って、危機である。

ロングスパンであるが故に意識されにくいが、確実に日本は衰退していく。

あらゆる資源の源泉である人間が減るのだから当然だろう。

人口減少は東京一極集中・地方過疎化を助長し、それらはさらに人口減少を助長する。

この負のスパイラルは10年20年で改善されるものではない。

我々は衰退の時代を生き抜かなくてはならない。

 

しかし本当にそうだろうか?

 

衰退する社会のなかで、人生の自由が制限されるなんてことはあってはならない。

我々はそれを許してはならない。

我々はそんな不条理を許してはならない。

金が無いから理想を諦めるとか、街を出られないから夢を捨てるとか、そんなことを許してはいけない。

確かに衰退は厳しい、問題に直面することだってあるだろう。

その問題を乗り越えられない瞬間だって訪れる。

でもそれに屈したら、でもそれを受け入れたら、何の為に生まれたのか分からなくならないか。

何かに従うために生まれてきたのか。

 

 

我々は檻で生きる家畜でもないし、プログラミングされた機械でもない。

我々は自律した人間である。

家畜や機械が持っていないような、社会を作る力が、幸福を追求する力が、夢を叶える力が我々にはある。

だからこそ我々は、我々に宿る可能性を信じるために、人生が素晴らしい冒険であることを証明しなくてはならない。

制限されたゲームでも単なるルーティンでも厳しい拷問でも無味乾燥な空虚でもなく、理想を掲げて戦い続ける英雄譚であることを証明しなくてはならない。

たとえ縮み続ける檻に入れられても、その背中を丸めてはいけないのだ。

 

私はそのために生涯を捧げる。

将来いつかどこかで生まれる名も知らぬ誰かが、自分の理想を叶えられる環境を作るために。

楽しい毎日を自分の世代で終わらせないために。

理想を諦めて夢を捨てる人がこれ以上生まれないために。

我々の人生を制限しようとする、この国の衰退そのものと戦う。

 

青春とは選択肢を削る日々のこと

大学院に合格した。

今日は大学院が主催する国際フェロー説明会に赴き、幾つかのプログラムの参加報告を聞いてきた。

これはインドだな。

インドが私を呼んでいる。

あちらが私に来いと囁いている。

 

 

 

青春とは選択肢を削り取っていく日々のこと、である。

かつて持っていた「無限の可能性(なお生まれ落ちた家庭の経済状況によって無限の定義は異なる)」は既に失われている。

大学生となれば、もう “人生" を始めるために選択肢を削っていかなくてはならない。

同期のほとんどは削り切って人生を始めたし、私も悩んだ結果、選択肢を削った。

私に残った直近の選択肢は “院進学” だった。

 

もし後輩の誰かがこんなバカアホブログを見ているのなら、上記のことを覚えておいて損は無い。

政策学徒的に記述すれば、未来への選択は経路依存である。

ターニングポイントXで選択肢Aを選べば、時点のターニングポイントYで選べるのは選択肢A-xしかない。

選択肢Bは選べない。

人生Bは無いからである。

もし選べたとしても、どんなに取り繕っても客観的に見れば選択肢Aはロスになる。

間違いから学んだ、とかいうのは間違えたことを正当化する慰めの言葉に過ぎない。

 

 

飽きた。以上。