暗闇の中での跳躍

物 議 を 醸 せ

新年あけましておめでとう。

今年もどうぞよしなに。

 

卒論がひと段落して、無事卒業できそうである。

これまで培ってきたものを卒業研究という形で多少なりともぶつけられたのではないかと思っている。

 

自己の連続性について考えることが多くなってきた。

小野寺という人間がこれまで何をしてきたか、という「歴史の連続性」は消えないだろうが、私が私のことをどう認識するか、という「自己の連続性」はどうなるのだろうか。

10年前の自分と、現在の自分と、10年後の自分では、何がどのように異なるのだろう。

 

たぶんだけど、何らかの変質が起こるのは確定的である。

自分を正確に自認できるのはその時の自分だけなので、22歳の自分が12歳の自分について評価してもあまり意味がない。

そういう不確定を防止するために、このようなブログが外部記憶として機能するのだろう。

 

それぞれの時代にそれぞれの私がいる、と考えると何だか寂しくなる。

それは、この文脈で考えたとき、殻としての "小野寺" は(たぶん)生き続けるだろうけど、中身としての "私" は遠からず消えてしまうからである。

私を規定するパーツを数多くあって、そのパーツが変質することで、総体としての私は変化するのだろう。

 

では、各時代における私の消滅がおしなべて悲しいのかというと、それも違う気がする。

なぜなら、現在の私がパーフェクトな私ではないという自覚があるので、将来の私が現在の私の欠点を補完し、殻としての小野寺の相対価値を押し上げてくれる可能性があるからだ。

もちろんその逆(より酷い人間になっていく)の可能性も十分にあり得るが、「正しい選択をした」という事実こそ、現在の私が将来の私へ示せる唯一の証、存在証明であるように思える。

注意するべきなのは、その存在証明が現在の私の人間性から言って、穏やかなものではないだろうということである。

好きな人を選ぶ、勉強を頑張る、友人と遊ぶ、家族を大切にする。

そうした一つ一つの「正しい選択」は現在の私の戦利品だけでなく、将来の私への挑戦状なのだろう。

「俺は正しい選択をした、お前はどうする」という挑戦状なのだろうと思う。

 

この先、累積していく経験から現在の「私」という自我は消え、そこから新たな「私」が生まれていく。

これが不可避の事象である以上、日頃から現在の「私」が行っている「選択」は、現在の所有物というだけでなく、将来の「私」に対しても残るものである。

将来の「私」が現在の「私」を憎まないようにするには、その選択を正しいものにしなければならず、その正しさが将来の「私」を焚きつける燃料になる。

これで燃え上がった炎のことを「自負」と呼ぶのだろう。