愛情省101号室

物 議 を 醸 せ

なぜ差別がいけないか

差別がいけない理由を説明できないのは、文明人として失格である。

私はCivilizationの申し子を自称しているので、文明人たる尊厳の回復とTOEIC勉強の息抜きに、この理由を自分なりに示しておく。

なおここでの『差別』の定義は、以下のものとする(ブリタニカ国際大百科事典より引用)。

『特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為』。

まぁどの辞典の定義をとっても大差はあるまい。

 

まずもって、差別がいけない理由を『自分が差別される立場に陥ったら嫌でしょ』というセーフティネット論にすり替える輩は人間失格である。

ありもしない仮定で話を進めると、ただの理想論で事が終わる。

最近このような輩がいて困る。

即刻文明から退場してもらいたい。

 

差別が発生するところでは、属性によって分かれている集団があり、さらにその集団間には何らかの大小による力関係が存在している。

力の大きい集団が力の小さい集団に対する一種の強制が一般的差別であろう。

単純は数の大小では決まらないのがミソである。

 

もう飽きてきたので結論を言うと、差別は多様性を殺すからダメなのだ。

差別は多様性を、そこから生まれる様々な可能性を殺す。

だからダメなのだ。

自由主義に生きる我々は、法の平等やら人権やら多元主義やらといったリベラリズムの上で安寧を享受している。

それを前提にして考えると、差別はこの理念を破るものである。

これは大きな損失である。

 

インド圏を見よ。

世界最大の人口を有しながら、未だにカースト制が息づく神秘の大地を見よ。

あそこには自由主義は無い。

キリスト教的西洋的価値観は無い。

あるのはヒンディーとカースト制である。

かの大地で、カースト最下層(不可触民)が自らの処遇を『差別だ!』と叫ぶだろうか。

否、彼ら自身は叫ばない。叫ぶのは西洋的価値観の住人である。

差別を良しとしない自由主義が根付いていないのだから、そこには差別だって存在しないのだ。

 

つまるところ、差別がいけないのは、一人一人の自由を大切にする価値観の中で生まれた我々であるから、である。

価値観が違えば我々が定義している差別だって正当化される。

 

というのが私の論である。

ただの備忘録なので、アカデミックな論陣を張るわけではない。

先行研究も調査してないし、精査だって無い。

もしかすると福祉系に刺される主張かもしれないし、そうでないかもしれない。

院試が辛い。

TOEICが辛い。